まず亡霊というのは物にぶつかったり、大気や重力の影響を受けるのでしょうか。もしそうで無く、まるでニュートリノのようにスイスイ壁など通過できると、メンドウ、というか特別なことが起きます。

私たちはあらゆる物質やその力から影響を受けているので、慣性の法則により、何も感じることもなく、地球の自転に従い回っています。

しかしその影響を受けない亡霊は、時速1000キロ以上で回り続けないと、地球上に静止している様には見えません。赤道周辺なら時速1600キロです。※音速(マッハ1)=時速1224キロ

実際はこれに加え、太陽系の公転や、銀河の回転速度(時速80万キロ=月まで30分)、果ては宇宙の膨張速度も自前でコントロールしなければならず、それは極めて高度な、宇宙での航行能力を意味します。

もし誰かが怨念をもったままこの世を去ったとしても、こんな能力を手に入れたら、それがコペルニクスならずとも楽しすぎて、人に憑りついているヒマはないでしょう。


                


つまり、そうした宇宙旅行の楽しみをも超えるほど、ヒトの怨念は強くなることもあるという、恨み、憎しみによるダークサイドパワーの恐ろしさを感じます。

また死を生命体全般に定義するなら、ヒト一人の死は腸内細菌を含め1000兆の死となり、自分はその1000兆分の1として、あの世へ行くことになります。

もしこの数でエンマ様に采配を委ねると、1生命体ごとに1秒かかるとしても、全て終わるのに3千万年となります。

これに日本の年間死亡者数136万人をかけると、40兆年となり、宇宙誕生の138億年をはるかにこえます。

もっとも霊界は遠大ですから、エンマ様やそのスタッフたちが1000兆人以上いるのかもしれず、あるいは1生命につき1ピコ秒(1兆分の1秒)で終わらせる可能性もあります。


      


そもそもあの世に行ける魂は、哺乳類までか。虫やクラゲ、さらにキノコなどの菌類はどうなるのか。またそれぞれに上下関係はあるのか、ギモンはつきません。

というか、キノコやクラゲにとってあの世の概念や、地獄の意味ってあるのでしょうか。あるいは恐竜とかネアンデルタール人など、どの生物ラインから、また何億年前から地獄が存在するのでしょうか。

動物由来を一切食べないビーガンを主義とし、殺生に強く反対する人は、植物を生物と認めて無いように見えます。さらにアリクイやペンギン、イルカなどは、罪深い動物とされます。

私としては、家を食い荒らすシロアリなど、殺虫剤で殺して構わないと思う一方、マラリアは、人間からジャングルを守る守護神のようで、生物における正しさの定義が揺らぎます


   


ここでもし死後の世界で魂が「生きて」いるのなら、その後の死、つまり死後死という状況を、どう理解しましょうか。死後の世界は無限とすると、少し引っかかる部分があります。

と言うのも太陽系を含め宇宙の寿命も有限で、地球自体が無いのに、地球人の亡霊が天の川銀河あたりを漂っていたとしても、それに存在意味が見い出せないからです。

例えば数万光年離れた他の太陽系に知的生命体がいたとして、そこが消滅した後、彼らの亡霊が地球に及ぼす影響を、どう考慮すべきでしょう。

「そんな遠くの霊は、私たちには関係ない。」と言って突っぱねるのも、何か間違っている気がしますし、「ならば何光年なら・・・」と反論するのも、それ以上に間違っている気がします。


  


死んだ後に星になる、あるいは何かに生まれ変わるという話があります。しかし星にも宇宙にも寿命があって、無限ではないのです。

また次々に死んでゆく大量生命に、リサイクルつまり輪廻を思いつくのは、宇宙を狭く定義していた昔だからこその発想かもしれません。

ところが宇宙における生命の存在は希薄で、月や火星にいてほしかった宇宙人は、航海の歴史に必ず出てくる原住民とは異なり、全く存在しなかったのです。

生命というのは宇宙が進化してゆく時の、最終エネルギー状態(命子とか)に近いのではないでしょうか。その次の行程が亡霊(霊子とか)なら、そこにはエネルギーが存在していることになります。


    


さらに宇宙を満たしている暗黒物質の正体が、実は霊であったら、ロマンを感じます。もちろんこの場合、霊は質量を持つことになります。

ですから死んだ瞬間、極めて高精度のハカリにより、若干軽くなったことが分かれば、それが魂の重さかもしれません。

ただしこの実験は、ヒトでは重過ぎて誤差が大きくなるため、バクテリアなどが適していると考えられます。

一方映画などでは、死んだ後に亡霊が色々な呪いのパワーを持ったりして、これじゃあ生きているより死んだ方がスゴイじゃねえか。などと思ったりします。

このことは、死ぬと何か特別のものになる、或いはなりたいという思いのあらわれと考えられ、死んでも「無」にはなりたくない。「有」として、より良く生まれ変わりたい。という思いを意味しているようです。





原因は、DNAに組み込まれている「生き続なければならない。」という指令が発端でしょうけれども、人類はそこに特別の意味合いを持たせました。

宇宙誕生の時に生命がなかったことは、どの宗教も反対していません。、百数十億年待ってやっと実体を持ち、百年たらずで死ぬのなら、同じ瞬間を生きている同胞との、素晴らしい人生に集中すべきでしょう。

もしそれを憎しみや、嫌がらせに使うなら、何時間も並んでやっと出てきたラーメンを前に、隣の人のスープにおヒヤや、ウーロン茶を入れるようなものです。

死後のことは深く考えるべきではなく、動物性プランクトンと植物性プランクトンの命の重さの違いや、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)などは考えるべきではありません。

人はどう生きるべきか。戦後、進駐軍(アメリカ)と堂々渡り合った、白洲次郎氏の好きだった言葉を、最後に載せます。ただし私なりに工夫して、若干アレンジしました。

金を残すのは下だ。

物を残すのは中だ。

人を残すのは上だ。

チャーシューメン頼んでチャーシューを残すのはバカだ。

・・・・。